F:悠紀斎田

 明治天皇は1912(明治45)年7月30日、61歳で崩御され、皇太子嘉仁(よしひと)親王が天皇の位を受け継がれた。新しい元号は「大正」、「天興」、「興化」の中から「大正」が択ばれ、1912(明治45)年7月30日が「大正元年」となった。

 1915(大正4)年、大正天皇即位の大嘗祭を行うにあたり、儀式に用いる新米を収穫するために京都より東日本を悠紀(ゆき)、西日本を主基(すき)として2つの斎田を選定した。これは1914(大正3)年2月5日、悠紀・主基の神殿で行われた。火炎の上に悠紀・主基の亀甲板2枚をかざし、甲面に生じた亀裂が悠紀は愛知県、主基は香川県を指したことから決定されたという伝説的な記述が残っている。

 大嘗祭(だいじょうさい)とは、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀であるが、当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であった。後に、即位後初めての新嘗祭を1世1度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。

 愛知県は悠紀斎田に岡崎市中島町(旧碧海郡六ツ美村大字中島字丸の内)で早川定之助が所有する田を勅定し、香川県は主基斎田に綾川町山田上(旧綾歌郡山田村)の田を勅定した。天皇1代に1度限りの大祭である大嘗祭の斎田に選ばれたことはとても名誉なことであり、六ツ美村民はもとより、愛知県民挙げての協賛儀式が進められた。斎田地には早速、周囲に斎竹(忌竹(いみだけ):不浄災難除けの葉付きの青竹)を立て、しめ縄が張られ標柱も建てられた。また、斎田事務所も建てられ、高橋用水も整備された。

最初(大正4年)の悠紀斎田写真をどうぞ!(悠紀の里サポート会提供)